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弔いの在り方を決めるのは故人の意志だけで良いのでしょうか。

2023.11.25

弔いの在り方を決めるのは故人の意志だけで良いのでしょうか。

極めて私見になることをご了解頂き、お話しさせて頂きたく思います。

過日、世間的には、かなり有名なお方の弔いについてのお話しが、インターネットの上で語られておられました、曰く「我の死後は葬儀不用、骨は海に跡形もなく撒くべし」。

全ては「虚無であるが故に」とも付帯して語っておられました。

私はこの有名なお方は正直好きなお方ではありません、むしろ、その言動、行いには多くの疑義を持っておりました。

これも又、極めて個人的な思いなので、それはあなたの想いですねと想って頂きたく願います。

しかし乍ら、それなりの業績と実績は世間的に高い評価も得ておられたお方です。

勿論、このお方のことを論じるつもりは毛頭ありません。

しかし、このお方の「遺言」が先に語りましたように、「弔い」の根源に関わるお言葉ですので、私見になりますことを前提に、少しお話しをと思います。

そもそも、弔いとは、大事な故人を残された方々がその大切な深い想いを形として、限られた時間の中で表現致し、報恩を胸に抱き「送らさせて頂きますね」ということを形として示して行くものではないでしょうか。

故人をお送り致す葬送の儀の形は、時代を遡れば語りつくせぬ程の変化を繰り返し、様々な形態を持って行われ、しかも、歴史を遡れば、階層によりそのお送りの仕方も違ったと思います。

只、階層により葬送の有り様は様々でも、基本は先に述べましたように、残ったものが先に黄泉の国へ旅立った故人を深い想いでお送りいたし、自分たちもその送りの儀式に自己を重ねることで故人との別れを現実のものとして受け止め、これから歩む残った自分たちの「生」の充実を実現させるスタートの位地としての意味を持っているのではないでしょうか。

その様に考えますと、お亡くなりの故人をお送り致すのはあくまでも残った有縁の者となります。

お亡くなりの故人が我が亡き後の葬送を含め、様々な自己の想い、願いを家族に語られることは少しもおかしくありませんし、批判を致すつもりは全くありません。

しかし、我が亡き後は「必ずにこうせよ」という尊大な想いに聞こえる、家族への言葉は、私は少し抵抗を感じます。

弔いの儀式は、先に述べましたように、先ずは故人をお送り致すことがその第一義であることは間違いありませんが、残された者が気持ちの収まりを着け、次の一歩を踏み出す為の儀式でもあるのです。

それは、先に黄泉の国へ旅立った者が残った者へ伝える、最後の大切なメッセージではないのでしょうか。

私達は先に旅立った方々のメッセージをその儀式を通して受け取り、残された自身の「生」の充実を実現致すべく生きて行くのです。

そういう意味では、わが亡き後は「こうしてもらいたいと考えているが、全ては、残る皆にその実行の有無は任せる」というのが良いように思います。

繰り返し申し上げますが決して、この有名なお方を貶めるつもりで語ってはおりません、むしろ、弔いの在り様を一人、一人が考えることへの提言を頂いたようにも思っています。

葬送の儀、弔いの形は時代と共に変わって行くことは抗いようがありません。

しかし乍ら、弔いの大切な根本は見失わずに関わって行きたく思います。

今年の残りも僅かとなりましたが、今は東福寺の紅葉も盛りです。

水子供養へお越しの懇意のご夫婦とお堂の前で会いご挨拶を致しました。

此方へお越しの前に、本山の「通天橋」へ紅葉狩りに行ってきましたとのお話し。

如何でしたかとお尋ねいたしますと、少し残念な見栄えとのこと。

確かに今年は尋常ではない暑さの為でしょうか、近年の中ではかなり色着きは良くないように感じます。

それでも、ここ数日は外国のお方も含め、多くの皆さんがお越し下さっています。

霊源院も「秋季限定の御朱印の授与」を例年通り行っておりますが、やはり多くの皆さんがお越し下さり、張り合いとなっています。

お墓参りの皆様、水子供養へお越しの方々にはご迷惑をお掛け致しておりますが、11月の末までは何卒、ご許容下さい。

残り少ない今年の期日ですが、皆さんも是非お越し頂き、少しずつ良き色づきになる、一時の紅葉をお楽しみ頂きたく存じます。合掌

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