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桜の散り際に想ったこと。

2023.04.06

桜の散り際に想ったこと。

京都は今年も変わらずに、いたる所の桜が満開となり、多くのの皆さんがお花見を楽しまれました。私たちは「今年も」桜の華と巡り会うことが出来ました。

何故「巡り会う」という表現なのかと言いますと、今年の桜を愛でることが出来ずに、黄泉の国へ旅立たれた方が当然におられるからです。

つい当たり前に、桜に限らず、秋の紅葉、春の新緑が毎年巡り来て、それを愛でることが当たり前に出来ると私たちは思い込みがちです。

しかし、どなたも頭ではお分かりのように人は何時かはそれが叶わぬようになる時を誰もが迎えます。

桜の華が咲き、散るときが必ず来るのと同じく、人は生まれ、暮し、年齢を積み重ね、病を得て、そして死を迎えます。

生きている者は何時かは必ず死にます。お釈迦様が示されましたように「この世は無常であり」、生あるものは必ず「滅び」変わらないものはこの世には何一つ無いということです。

私たちは日常の中で、普段はそのようなことは気にせずに暮らしています。

しかし、先日お亡くなりの著名な音楽家のお方の訃報を聞いたり、身近な親族がお亡くなりになられると、「死」というものが急に近くに感じるようになります。

先日、近所のお寺の年齢はあまり変わらぬ、ご住職がお亡くなりになりました。

ご葬儀へ寄せて頂き、お焼香の後、自分のお寺へ戻る途中にそこのお寺の桜の華を見上げますと、正しく散り終わる寸前でした。

改めて、お釈迦様の「諸行無常」の言葉を噛みしめる契機となりました。

限りある生の中で、巡り会える「縁」を大切に致さねばと思うことでした。

法事、葬儀も又、「死を学び、良き生を目指す、学びの場です」。

死を間近に体験し「人は何時か必ず死にます」と直接に教えてくれるのがお葬式、法事です。

又、お墓参りにお越しになり、大事な故人へのお手合わせの時も同じです。

私たちは将来にどのような人生、どのような未来が来るのかは解りません。

何回も申し上げていますように、確実なのはどれだけ医療が進歩、発展致しても何れは黄泉の国へ旅立つという事実です。

折角に大事な故人、近しい故人の葬儀、法事に立ち会うのです、これから「その時まで」の自分の生をより良き満足を持ち過ごせるように、故人が学びの機会を下さったのです。

故人の遺影、位牌へ向かい真摯にお手合わせ致すと共にこれからその時まで続く「生」を噛みしめて、故人と向かい会いたいものです。

龍眠庵の永代供養墓、樹木葬が本当に喜ばれています。

霊源院が永代供養墓を他のお寺に先駆けて初めて、既に随分の月日を重ねました。

お陰様で、多くの皆さんに御支持を頂き、お墓参りの皆さんが絶えることの無い日々です。

そして、師匠のお寺の龍眠庵、傷んだ山門の新築、伽藍と庭の整備の費用のためも有り、昨年の春から同じく分譲を始めました、永代供養墓と樹木葬。

想像を超える多くの皆さんのご縁を頂き、既に残りがそれ程には無い状況です。

少し寂しかった龍眠庵のお墓もお参りのお方が増え、霊源院に負けぬほどになってまいりました。

霊源院、龍眠庵共にまだ、永代供養墓のご縁を頂く余裕はあります。

永代供養のお墓をお考えのお方はお気軽にお声かけ下さい。

お待ち致しております。合掌

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