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東福寺霊源院縁起

霊源院の創建 開祖「在先和尚」 水野忠重候と霊源院 伊達政宗候肖像画

霊源院の創建

霊源院の前身は後醍醐天皇の皇子で虎関師錬に近侍し、その法を継いだ龍泉令淬(~1364)によって、延文年中(1356~61)に開かれた塔頭天護菴と伝えられています。(東京大学史料編纂所蔵「東福寺諸塔頭并十刹諸山略伝」)

霊源院には天護菴の関係文章や同菴の壇越であった室町幕府奉行人飯尾兼行(浄称居士)の肖像画(応永21年8月東福月厳令在の賛がある)が伝わっています。

現在の霊源院が成立するのは、在先和尚が生前の応永7年(1400)に海蔵院から境内の西側の土地1000坪を「在先和尚塔頭敷地」として譲られ、ここに晩年の退去所として寿塔(生前の墓所)を建ててからです。(霊源院文章)

室町幕府奉行人飯尾兼行の肖像画

飯尾兼行像 (霊源院蔵)

開祖在先希譲

霊源院の開山である在先希譲(1335~1403)は、建武2年(1335)に越中国(今の富山県)に生まれました。

青年時代に『元亨釈書』の作者として著名な虎関師錬の弟子である龍泉令淬に師事して、尾張国真福寺で出家しました。

初めは建仁寺で修業したあと、至徳元年(1384)8月に三聖寺住持に任じられて以降、龍泉の法を嗣いで東福寺聖一派に転じ明徳元年(1390)8月に普門寺の住持を歴任したあと、応永5年(1398)8月に東福寺62世となり、同時に応永10年3月4日、享年69歳で海蔵院において示寂しました。

東福寺の画僧吉山明兆(1352~1431)が描いた在先和尚の肖像画は、生前の姿を描いたもので、上部に自ら賛を加えた自賛の寿像です。

毎年祥月命日にあたる3月4日(現在は4月4日)には、当像を掛けて開山忌法要を行っています。

在先和尚の肖像画

重文 在先希譲像 吉山明兆筆(霊源院蔵)

在先和尚は、一方で、中世五山文学の第一人者である義堂周信の門下となり、南北朝から室町初期の五山文学を代表する一人になります。

霊源院には、在先和尚の『北越吟』のほか、師の龍泉令淬の詩文を在先和尚が編纂した『松山集』、虎関師錬の行状を撰した年譜の草稿本である『海蔵和尚紀年録』が伝わり、いずれも重要文化財にしてされています。

重文松山集(霊源院蔵)

重文 松山集(霊源院蔵)

水野忠重候と霊源院

三河国刈谷城主で織田信長勢であった水野忠重は、天正10年(1582)6月に本能寺の変の際に明智光秀勢の追手から逃れて、三日三晩飲まず食わずで供の者とともに霊源院の裏山に隠れていたところを時の住職文披令憩(東福寺221世)に助けられて寺内に匿われました。

混乱も収まった後に忠重は住職に暇乞いをして6月11日に無事に刈谷に帰国し、後日その時の御礼として霊源院に使者を送り、「長老のお情けで急難を免れました。この御恩は決して忘れません」と申し上げて、霊源院を菩提寺として寺領50石を寄付して信仰を厚くしました。

慶長5年(1600)7月19日刈谷にて死去した際には奥方より霊源院に墓が建てられ、忠重が生前に着した位袍や長刀をはじめ様々な文物の寄進を受けるなど、爾来、霊源院と水野忠重は好誼を重ねました(「明良い洪範」)。また豊臣秀吉主催の醍醐の花見の際には、水野家の茶屋に雅な屏風を貸すなどの便宜を図ることもありました。境内の墓地には、福山城初代城主「水野勝成」候の墓所があります。

霊源院に所蔵する水野忠重像は、元禄12年(1699)に候の100周年忌を霊源院にて修せられた時のもので、その折に霊源院に寄進されたものです。

水野忠重候肖像画

水野忠重像(霊源院蔵)

伊達政宗候 肖像画

東北の勇者 伊達政宗候の隻眼をリアルに描いた肖像画として現存する政宗像の中でも大変貴重なもので、作者は江戸時代中期の朝廷の絵所預職を代々勤めた絵師土佐光貞です。

本像が霊源院に所蔵されるいわれは不詳ですが、奥州には松島瑞厳寺と並んで伊達家の二大菩提寺である東昌寺をはじめ東福寺派の禅寺が複数あり、そのような縁で伝わったものかと思われます。

伊達政宗候の肖像画

リアルな描写から歴史雑誌のカバーに採用された伊達政宗像(霊源院蔵)

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